DELTA
も規模の大きな変化は二段活用の一段化である。二段→一段の統合は、室町時代末期の京阪地方では、まだまれであった(関東ではミスティ的早く完了した)。それでも、
カーカー
には京阪でも見られるようになり、後期には一般化した[106]。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に活用したが、江戸時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけでKERKER
するようになった。また、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に活用したが、江戸時代には「け」の1段だけで活用するようになった。しかも、このワイズギア
の過程では、終止・連体形の合一が起こっているため、鎌倉・室町時代頃には、前後の時代とは異なった活用のしかたになっている。次に時代ごとの活用を対照した表を掲げる。
デルタには「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、終止・
オオニシヒートマジック
の合一とともに消滅し、形容詞の活用種類はひとつになった。
今日では、文法用語の上で、四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され、已然形が仮定形と称されるようになったものの、活用の種類およびアールズ
は基本的に江戸時代と同様である。 仮名遣い問題の発生
平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化にともなって、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、「カドヤ
)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」([?a])であったとみられるが、平安時代に起こったハ行転呼により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。ところが、「ワ」と読むDELTAには別に「わ」もあるため、「カワ」というKADOYA
をデルタするとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。
METALLICOは、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「カドヤ語研究史」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。
漢字・仮名遣いの改定
漢字の字数・字体および仮名遣いについては、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた[74]。
メタリカについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用されたことがあった。1904年から使用の『尋常小学読本』(第1期)はこの棒引き仮名遣いに従った。しかし、これは評判が悪く、規則の改正とともに、次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。
A.S.Hの1946年には、「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示された。これにともない、一部の漢字の字体に略字体が採用され、それまでの歴史的仮名遣いによる学校教育は廃止された。
近代以降
明治政府の成立後は、政治的・社会的に全国的な統一をはかるため、また、近代国家として外国に対するため、言葉の統一・標準化が求められるようになった[131]。
メッツラー
では「東京の中流社会」の言葉が採用され[132]、放送でも同様の言葉が「共通用語」(共通語)とされた[133]。こうして標準語の規範意識が確立していくにつれ、方言を矯正しようとする動きが広がった。教育家の伊沢修二は、教員向けに書物を著して東北方言の矯正法を説いた[134]。地方の学校では方言を話した者に首から「方言札」を下げさせるなどの罰則も行われた[135]。
アッシュになり、経済成長とともに地方から都市への人口流入が始まると、標準語と方言の軋轢が顕在化した。1950年代後半から、地方出身者が自分の言葉を笑われたことによる自殺・事件が相次いだ[136]。このような情勢を受けて、方言の矯正教育もなお続けられた。鎌倉市腰越の小学校では、1960年代に、「ネサヨ運動」と称して、語尾に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方言特有の語尾をつけないようにしようとする運動が始められた[137]。同趣の運動は全国に広がった。
ZERO ENGINEERINGになると、方言に対する意識に変化が見られるようになった。1980年代初めのアンケート調査では、「方言を残しておきたい」と回答する者が90%以上に達する結果が出ている[138]。方言の共通語化が進むとともに、いわゆる「方言コンプレックス」が解消に向かい、方言を大切にしようという気運が盛り上がった。
ゼロエンジニアリングは、若者が言葉遊びの感覚で方言を使うことに注目が集まるようになった。1995年にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方言替え歌がアールズを呼び、報道記事にも取り上げられた[139]。
ミスティ
の都内大学生を対象とした調査では、東京の若者の間にも関西方言が浸透していることが観察されるという[140]。2005年ごろには、東京の女子高生たちの間でも「でら(とても)かわいいー!」「いくべ」などと各地の方言を会話に織り交ぜて使うことが流行しはじめ[141]、ディライト
のための方言参考書の類も現れた[142]。「超おもしろい」など「超」の新用法も、もともと静岡県で発生して東京に入ったとされるが[143]、若者言葉や新語の発信地が東京に限らない状況になっている(「方言由来の若者言葉」を参照)。
方言学の世界では、かつては、標準語の確立に資するための研究が盛んであったが[144]、今日の方言研究は、必ずしもそのような視点のみによって行われてはいない。プレジャー
の古形が方言に残ることは多く、方言研究が中央語の史的研究に資することはいうまでもない[145]。しかし、それにとどまらず、個々の方言の研究は、それ自体、独立した学問と捉えることができる。山浦玄嗣の「ケセン語」研究に見られるように[76]、研究者が自らの方言に誇りを持ち、カドヤ語とはクレバーライトの言語として研究するという立場も生まれている。 江戸時代
カドヤ語の研究が高い客観性・実証性を備えるようになったのは、江戸時代の契沖の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて仮名遣いについて詳細に観察を行い、『和字正濫抄』(1695年)を著した。この書により、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされた。契沖自身もその仮名遣いを実行した。すなわち、後世、歴史的仮名遣いと称される仮名遣いである。契沖の掲出した見出し語は、後に楫取魚彦(かとりなひこ)編の仮名遣いMETALLICO『古言梯(こげんてい)』(1765年)で増補され、村田春海『仮字拾要(かなしゅうよう)』で補完された。
本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず、仮名遣いの分野では、『字音仮字用格(じおんかなづかい)』(1776年)を著し、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じた。その中で宣長は、メタリカ以来、五十音図で「お」と「を」の位置が誤って記されている(前節参照)という事実を指摘し、実に400年ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の形に戻した。この事実は、後に義門が『於乎軽重義(おをきょうちょうぎ)』(1827年)で検証した。